韻の違いは作品の光
まず最初に注意です。
今回の記事についてはかなり僕自身の勝手気ままな意見が多く入ります。
おそらく、賛否両論であったり、もしくは否定ばかりであったりという部分がある分かっていながら見ていただけると幸いです。勝手なイメージばかりを書きますがご了承をば。
また、この記事は前回の続きになるので、前回の記事を読んでいただけると幸いです。
さて、前回の記事でに日本語における韻の面白さについてまとめた記事を出したが、「日本語における韻」に対して限界を日々感じている。
たとえば、「日本語ラップ」とか「日本語の韻」とかいう既存の枠組み自体ダサいと思っている人も一定数いる。
何より自分の母親がそれだからだ。
ツイッターでもツイートした通り僕はこのDVDを買った。
戦極18章DVD買ったので
— みやざき (@kanta_aka_mykn) 2018年11月10日
貸してほしい人は是非!
この「戦極18章」ってなんぞ?と思った人もいるかもしれないが、簡単に言うとまあ野球でいうオールスター戦、サッカーでいうところのワールドカップみたいな感じなのである。
(それも口で伝えるのはとても難しいが、簡単に言うと、イチローvs大谷翔平とか、山本KIDと那須川天心みたいなドリームマッチしかないファンにとっては激熱なものである)
そんなDVDを興奮冷めやらぬうちに家で見ていたときのことである。
ふと母親がである。
「全部同じに聞こえるんだけど、うるさい、音量を下げろ」
え、
今のこれあなたがたが普段見ているテレビの音量よりも二つまみ小さいんだけど。
これはつまり自分の母親にとっては全くもってスタイルの違いとってまったく違いが判らず総じて”ダサい”とのことである。
僕は全く母親のことを軽蔑しているわけでも、バカにするためにこの記事でこれを取り上げたのではない。
自分の知らない世界に関しては多少最初嫌悪感を抱いてしまうことは仕方のないことだし、それは誰もが持ち合わせている感情である。
ただ、これだけ言わせてもらいたい。
「もう少しだけ知ったらどうだろう?」
僕が言いたいのはこれである。
最近、僕の周りには本当にぱっと見で人をけなしたり、嫌いになったりという人が本当に多い気がする。
同じ色をみんな求めている。そんな気がする
そのうえで、白か黒かそんなことを気にしてばかりいる
だが、それでいいのか?
集団に属しているだけで妙な安心感から何を言ってもいいと思っている部分があったりするんではないだろうか?
という思いがあるのだ。
この記事に関しては個人の受け取り方次第だが、僕自身はそのようなぱっと見での判断は断固としてさけたいし、自分もこのようなことはしないようにと常に言い聞かせている。
と、いうわけでそれっぽいこと書いて「韻」についての記事は一切かけなかったのでこれに関してはまた次回にさせていただく。
ラッパーにおけるスタイル、韻の違いがその人の色になるように、何事にも否定的になりすぎるのを避けると何か変わるのでは。というわけです。
支離滅裂でしたが、また次回!